ベルリンの壁  トヨタ博物館  Home

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ベルリンの壁

何故か横浜市に保存されている

 横浜市都筑区の横濱市営地下鉄センター北駅を降りて、都築阪急の横を通り過ぎて少々郊外へ歩いたところに、或るドイツ系企業の技術センターがある。テュフ・ラインランド・ジャパンと云う会社だ。会社の入口付近から見た光景が↓である。

ベルリンの壁

 植え込みの中に、何やら謎の物体が佇立している。是がそもそも何なのか即断することは困難であろう。一見してベルリンの壁と分かった人間は、相当なオスタルギストさんとしか思えない。

ベルリンの壁

「謎の物体」が佇立している場所は、公開緑地のようになっていて、一般に立ち入ることができる。是がベルリンの壁であることを説明するパネルがちゃんと整備されていた。付近の植木も手入れがされている。

ベルリンの壁

 説明パネルでは、1961年に東ドイツ政府が西ベルリンを取り囲むように155kmの長さに渡って建設したこと、1989年11月9日に東西ベルリン市民の手によって壁が崩壊したこと、1990年10月3日に東西ドイツが統一されたこと、等が分かり易いように記述されていた。

「ベルリンの壁」を至近距離で観察

ベルリンの壁

 んーっと考え込むような、やはり謎物体としか云いようがないな。珍妙極まる「絵」は、フランス人画家:ディエリー・ノアールによって描かれた。もちろん、壁として機能していた時代の作品である。ベルリンの壁は、西ベルリン側からは近付くことも触ることも出来た。人々は、民主共和国への怒り、ソ連への怒り、共産主義への怒り、その他いろんな思いをぶつけるように、壁に無数の絵を書き殴った訳である。

ベルリンの壁

 一方、こちらは東ベルリン側。落書きは一切無い。壁の手前は、東ドイツの国境警備隊が厳重な警備を行っていた。数十メートルに渡る無人地帯があり、砂地(人が立ち入ると靴の跡が残るようになっている)、パトロール車両専用の道路、金網の柵、さらにもう一枚の壁が建てられていた。此処までせねば、自由を求めて脱出を目指す人々を阻止出来ないとは、如何に共産国家が嫌われていたかが分かるだろう。日本の「進歩的知識人」と云われた連中は、此の現実を何処まで正確に捉えていたのであろうか。

壁の構造は醜悪そのもの

ベルリンの壁

 壁の高さは、ざっと4メートル弱と云ったところか。実際は3.6m〜4m程度だったとされ、しかも最上部は「ねずみがえし」のような円形で、ロープを引っ掛けたりするのも困難な構造であった。ドイツ人らしく、馬鹿に機能的なのである。こんなことを極めれば極めるほど、共産国家に未来も希望も無いことを暴露したまでで、人類史に残る愚行の一つとして永遠に記録されるのであろう。もちろん、こんなことで諦めない人々も多く存在した。トンネルを掘ったり、米軍人に変装したりと、ありとあらゆる手段で脱出を試みる。もちろん、国境警備隊に射殺される者も続出するなど、多くの禍根を残すことになった。挙句の果てには、脱出を手助けする「ビジネス」まで登場、政治犯を西ドイツ政府が金を払って引き取り、其れが東ドイツ政府にとって「おいしいビジネスになる」と云う珍妙な現象まで起きる。東国民を西ドイツ製のカメラで監視すると云う訳の分からない事象が起き始めたとき、既に壁崩壊のカウントダウンは始まっていたと云えよう。

壁の一部は拙者も所持

ベルリンの壁

 実は、ベルリンの壁の一部は拙者も昔から所有していたのであります。親戚が、ベルリンの壁が崩壊して十年後くらいに現地を観光したことがあって、お土産にくださったのだ。其れでは歴史の断片を眺めつつ、ベルリンの壁崩壊のドタバタ劇を見ていくことにしよう。

1989年11月9日〜ベルリンの壁崩壊

それは一人の男のとんだ勘違いによって引き起こされた・・・

 事件が起きる少し前から、既に東ドイツ政府は混乱の極みであった。ソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフが、ペレストロイカ(ひゃー懐かしぃー)を発動して以来、東ドイツを含む東欧諸国では改革と民主化を求めて市民が活発に動き出していたが、東ドイツ政府を長年牛耳っていたホーネッカーSPD書記長は、断固として現体制の維持にこだわっていた。かと云って、ホーネッカーに何か策があったのかと云えば、ペレストロイカの成果を伝えるソ連雑誌「スプートニク」を発禁処分にしたことぐらいであった。東ドイツを訪問したゴルバチョフは、ホーネッカーの石頭ぶりに「駄目だこりゃ」と舌打ちをする有様である。既に周囲では、「ゴルビー!ゴルビー!」「ホーネッカー辞めろ!」と市民のシュプレヒコールが噴出していた。

 東ドイツ国民の不満は頂点に達していた。自由を求めてハンガリーやチェコスロバキア経由で西ドイツへ脱出しようとする人間が続出、東ドイツ政府はこの事態に何の策も講じられないでいた。もうこのままでは政府はもたない、と考えたホーネッカーの飼い犬共は、「ドン」の追い落としを画策する。長年、シュタージ(国家秘密警察)長官としてホーネッカーに仕えていたミールケでさえ、ホーネッカーに見切りをつけた。飼い犬に噛みつかれたホーネッカーはやむなく退陣する。かつて「エーリヒおじさん」と青少年に親しまれた若き活動家の面影はもう何処にも残っていなかった。
 それでも東ドイツ国民の不満は収まらない。言論の自由、旅行の自由を求めて主要各都市では数十万人規模のデモが繰り広げられ、国家人民軍や警察、そしてあのシュタージでさえ、なす術が無いと云う有様だった。

ベルリンの壁

↑ベルリンの壁(親戚のK氏提供)

 一昔前のように、ソ連軍が弾圧しに来てもくれない。東ドイツ政府首脳も、現時点で起きている事態をまともに把握することさえ出来なくなっていた。それは東西各国の首脳も、ほぼ似たような状況であった。この後に起きる呆気ない出来事など、全く想像していなかった。「まさか」が現実となってしまったのだ。

世紀の大勘違い劇

 エゴン・クレンツら、ホーネッカーの手下だった連中は、すったもんだの末にとうとう国外旅行の自由化を決定する。1989年11月9日、大急ぎでまとめられた政令改正案を国民に発表するため、エゴン・クレンツは、スポークスマンのギュンター・シャボウスキーにメモを渡す。ところが、このシャボウスキーと云う男、政令改正案の中身を絶妙なまでに勘違いしてしまう。

 運命の記者会見・・・シャボウスキーは、歴史に残る大勘違い劇をカマしてくれた。
「ベルリンの壁を除く国境通過点から出国する場合、ビザ発給の条件を緩和します(せめてビザは必要!)」だったのを「ベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められます!」と発表してしまったのだ。驚いた記者が、それは何時からか?と質問すると、「えーとですね、特に何時からとかは無いようなので、今からだと思います!」と答えてしまう。それ以前に、この政令については翌日の朝に発表する予定だったのだが。

「えーーーーーっ!!」

 記者会見の模様をテレビで見ていた東西両国民は仰天した。誰もが、「東西ベルリンの検問所がフリーになるんだ!」と受け取ってしまったのだ。

 半信半疑のまま東ベルリン市民が壁に集まりだした。東ドイツの国境警備隊員は、むろんそんな話は聞いてないと突っぱねる。やれ、テレビで見た、そんなこと聞いてない、の応酬を繰り返すうちに、壁に集まる市民は増えるばかり。ついには「検問所開けろー!」と云う地鳴りのような怒号に包まれる状況になった。
 もう万事窮すとなった国境警備隊側は、独断で検問所を開放する。わーっと西側へ押し寄せる東ベルリンの市民達。西ベルリンの市民も、歴史的瞬間を見届けようと集まっていたため、もう何が何だか分からないぐらいのどんちゃん騒ぎとなった。そして、11月10日未明、誰かが勝手に重機を持ち出して「壁」の破壊作業を始めてしまう!

 群衆はベルリンの壁を次々に乗り越えてます!本当に起きていることか・・・信じられない光景でーす!

 様子を伝えるニュース番組のアナウンサーが絶叫する。

 この呆気ない幕切れに世界が仰天した。ほんの数時間前まで、世界の誰もがこのような事態になることを予想していなかったのだ。米ソ首脳や西ドイツのコール首相でさえ。そらそうだ。この事件は、一人の男のとんだ「勘違い」によって引き起こされたものだから。ところでボンの国会議事堂では一報を受けて審議が中断、議員の間から国家斉唱が沸き上がったそうだ。

チェックポイントチャーリー

↑人々が押し寄せた検問所の一つ「チェックポイントチャーリー」(親戚のK氏提供)

東ドイツ政府の完全崩壊

 東西冷戦の象徴的存在だったベルリンの壁が崩れたことで、ドイツをはじめ関係各国は暫くお祝いムードに包まれた。ところが其の後の展開は再び世界を仰天させるに十分だった。ベルリンの壁どころか、東ドイツ政府自体も完全崩壊してしまったのだ。
 ベルリンの壁が崩れたと云っても、東西ドイツが統一するにはそれなりの時間がかかるだろう〜西ドイツのコール首相をはじめ、東西両国民はかなり冷静に成り行きを分析していた。ところがほんの数か月かそこらで事態は一変する。もはや東ドイツは国家としての体をなしていなかった。経済システムも麻痺し、警察も軍も機能を停止してしまった。ゲシュタポやKGBを超えたとされるシュタージさえ、事務所を市民に荒らされるなどして機能を喪失、路線バスの運転手もいなくなって人民軍兵士が運転している有様だった。もう誰もが「東ドイツ政府は終わった」と悟ってからは早かった。東ドイツ政府の自然消滅と西ドイツへの吸収合併と云う、信じられないような結末が壱年も経たずに起こってしまったのだ。合併する先の西ドイツもまた同じドイツ人なのだから、なるほど話は早いのである。

ベルリンの壁

↑穴が開いたベルリンの壁(親戚のK氏提供)

東ドイツとは何だったのだろうか

 国民の生活水準も社会主義国で断トツのトップ、国家人民軍はワルシャワ条約機構で最高の練度を誇り、悪い意味でシュタージは保安警察の最高傑作であった。社会主義国の優等生とまで云われた東ドイツが、此処まで脆いとは誰も予想していなかったのだ。しかしながら、蓋を開けてみればやっぱり「残念!」としか云いようがなかった。そもそも、ホーネッカーをはじめとする指導層が既に西側の暮らしを決め込んでいたのだ。東国民が、トラバントと云う安普請な大衆車で我慢していたのに、ホーネッカーはベンツやシトロエンと云った西側高級車を何台も所有していた。しかもプール付の邸宅に住み、西ドイツ製のビールを飲み、数百人の家事使用人を雇っていたホーネッカー。ブルジョワを超えてプロイセン国の領主気取りであった。是ではマルクスも何もあったもんじゃない。イデオロギーの前提が崩れてしまえば、東政府に大した存在意義は無かった。差別化を図るものが無くなれば、当時世界第参位の経済大国西ドイツにただ圧倒されるだけである。

 1990年10月3日、東ドイツは西ドイツに吸収されるような形で「合併」を成し遂げた。ドイツをはじめ関係各国は再びお祝いムードに包まれたが、その後の展開は東国民にとって予想を超える試練の連続だった。
 競争力の無い旧国営企業は倒産し、失業者が街に溢れた。大衆車トラバントも重化学工業のプラントも、有害な排気ガスを垂れ流していたため環境破壊も深刻だった。
 西ドイツ国民は、明らかに「旧東独=お荷物」と考えるようになっていた。東独と云うだけで、時代遅れのレッテルを貼られ、バカにする場合のネタとして消費された。旧東国民は、是までの人生を否定されたも同然の挫折感と屈辱を味わったのだ。

 いや、東時代も悪い話ばかりでは無かった!トラバントは低性能だったが修理は簡単だったし、あの頃は何より失業があまり無かった・・・東時代を懐かしむ「オスタルギー」と云う概念が現れたのも無理はない。ソ連に締め付けられ、西ドイツに水を空けられ、それでも彼らは、限りある条件でどうにかそれなりのモノを産み出していた。何とか頑張れたのは、ホーネッカーのためでもマルクスのためでもない。ドイツ人としての最低限の責任感故だったに違いない。

ベルリンの壁崩壊〜それから10年(親戚のK氏提供)

ベルリンの壁

ベルリンの壁

 なぜか壁がある時代の写真は冬の寒々とした光景で、壁崩壊後は美しい青空のもと、まるで楽園でもいるかのようなキラキラ感があって、天気が違うだけなのに是は意図的でしょ!と突っ込みたくなる。壁崩壊後の写真で、旧東ベルリンのテレビ塔が見えている。

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