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実物の原爆ドームを見る

念願の広島訪問実現へ!

 ちなみに旅行当時は札幌赴任から戻って東京に移り住んでいたから、新幹線で広島駅へ向かった。広島駅から広島電鉄の路面電車に乗り換え、いよいよ原爆ドーム前へ向かう。人生初めて原爆ドームの本物を見ることが出来た。





産業奨励館が破壊されるのにかかった時間は、たった1秒

 原爆ドーム(旧産業奨励館)は、どのようにしてこんな姿になったのか。平成10年に放送された、NHKスペシャル:原爆投下・10秒の衝撃、是も大いに参考になった。
 まず、原爆炸裂から100万分の1秒後、爆心地の人々は既に致死量の放射線を浴びて全滅したとされる。熱線や爆風が襲い掛かる前に、もはや死を免れなかったことになる。産業奨励館の建物内は、非番の一人を除いて約30人ほどが働いていたそうだ。
 原爆炸裂から0.2秒後、爆心地付近に約2千度の熱線が到達した。地表温度は3千度から4千度に達したとされる。人間は瞬時に水分が蒸発し、炭化したと云う。爆心地から2キロまでの人が、全身の皮膚が焼けただれる重症を負い、多くの人が亡くなった。産業奨励館もまた、此の熱線をまともに浴びた。猛烈な熱線によって、ドーム屋根を覆っていた0.3ミリの銅板が溶けるほどだった。
 原爆炸裂から0.6秒後、衝撃波が到達する。此の衝撃波は音速より速かった。多くの人々が吹き飛ばされ、さらに瞬間的に真空状態が生じたことで、眼球や内蔵が飛び出る人もいた。原爆の異様な破壊力は、人間をこうまで無残に痛めつけるのである。
 産業奨励館は、猛烈な衝撃波で瞬時に破壊された。ドーム屋根の銅板が熱線によって溶けたため、衝撃波で屋根は瞬時に鉄骨のみになった。爆風が鉄骨の間をすり抜け、さらに窓が多いことで爆風の逃げ道が出来たことで、此の部分が倒壊しなかった、と推測される。強風の中で傘をさすと、傘が折れ曲がってしまうことがあるが、骨だけの傘をさしても、傘は容易に折れない。是と同じ原理である。ドーム内は階段があって、途中から左右に分かれる構造(螺旋階段とも微妙に違う)であったとされている。正に建物の中心で、此処から各フロアに連絡していたのだ。階段は、真上から襲う爆風をまともに受け、粉々になって地面に叩きつけられたらしい。


平和公園、資料館を見学する




 原爆資料館は東館と本館があるのだが、東館は工事中で閉館していたのは残念だった。其処には原爆投下前の広島市中心部のジオラマがあり、産業奨励館の被爆前の建物も再現してあったからだ。ちなみに、あの建物を設計したのは、チェコ人のヤン・レツル氏。建物は大正4年に竣工、当初は広島県物産陳列館と呼ばれていた。
 大正8年3月4日、ユーハイム創業者カール・ユーハイムが、日本で初めてバウムクーヘンを出品したのも、此の物産陳列館においてであった。バウムクーヘンをこよなく愛する拙者にとって、何とも感慨深い歴史の一コマである。→詳しいお話はこちらから・・・
 大東亜戦争の時代、被爆直前の当建物は、陳列する物産も事欠いた時代を反映してか、行政機関や企業などが入居していた。


 ジオラマ狂である拙者にとって最も見学に費やしたのが、本館にある被爆直後のジオラマだ。カメラを向けることに抵抗感がない、唯一の展示であろう(ジオラマは所詮ジオラマだから)。もちろん、此のジオラマも原爆ドームが作り込まれているが、原爆が炸裂した様子を示す球体の影になってしまい、見えにくいのが惜しい。(此のジオラマも後に撤去されたようで、やはりジオラマ自体が正確性に欠ける等の問題もあったのだろうかと思考するようになった。)

島病院〜此処が本当の爆心地


 原爆ドームから徒歩数分のところにある島外科内科、此処が本当の爆心地とされている。当時は島病院と云う名称で存在していた。被爆当時、此の界隈は3000度から4000度の熱線と猛烈な爆風で、ほとんどの人が即死したと考えられている。しかしながら、院長先生はたまたま往診で出張中であったため難を逃れたらしい。医院前には爆心地であることを示すモニュメントがあった。

「サンモール」でお好み焼きを食べ、鉄道模型で遊ぶ

 島外科内科からちょっと東へ歩くと、繁華街が連なる。「サンモール」と云うショッピングセンターで食事をした。広島風のお好み焼きである。生まれが大阪なのでお好み焼きはよく作るが、広島風を食べるのは初めてだ。此の広島のお好み焼きの歴史を見ても、やはり原爆の被災と終戦後の食糧事情が関係している。拙者の祖母は、小麦粉のことを「メリケン粉」と呼んでいた。終戦後、アメリカから小麦粉が大量に供与されたことを反映しているが、広島も状況は同じ。まだ洋食に不慣れな日本人は、小麦粉を貰ったところでどう調理していいか迷ったそうだが、其処で生まれたのがお好み焼き。広島名物の誕生にアメリカが絡んでいるのは皮肉でもある。


 さて、此の「サンモール」店内には、鉄道模型専門店ポポンデッタがある。レンタルレイアウトでお世話になっている店だ。広島店のレイアウトは、広島ならではの光景が作り込まれていると聞いていたので、早速お邪魔してきた。(→詳しくはこちらでも)
 持ち込み車両は阪急6300系の4連。荷物になるので是しか持ち込め無かった。寂しいのでお店の車両もお借りする。晩年、山陽新幹線で余生を送った0系を借りた。
 レイアウト内は、宮島や広島城もある。広島らしく路面軌道や広電の路面電車もある。そして見つけたのは、あの原爆ドームのプラモデルであった。拙者が鉄道模型のレイアウト製作に使おうかと思っていたことと、全く同じことを考えていた訳である。周囲は高架橋に囲まれてしまって、かなり不自然な光景になってしまっているが。
 以上が、一人の鉄道ヲタクが広島に辿り着いて初日に目にした「光景」である。ちなみに、拙者自身が核の問題にについてどんな考えを持っているのか、此の場での披露は差し控える。それなりに考えがまとまったのは後々のことであり、拙者が書いた小説の中で示すことになったからだ。
 拙書「相生橋にて」を書くきっかけとなったのは広島の路面電車〜拙者が心から愛するようになった理由については、次のコーナーから述べていきたい。

→次コーナー:広島の路面電車について

原爆ドームのプラモを作る

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原爆ドーム〜いよいよ本物を見る   

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