苦学してタカラヅカトップスターに上り詰め、さらに日本を代表する大女優として飛躍しかけた矢先、広島の原爆によって全ての夢を奪われた悲劇の女性、世の人は園井のことを「未完の大女優」と評して、其の若すぎる死を惜しんだ。
彼女の本名は袴田トミさん、名前の雰囲気からしてタカラジェンヌとはかけ離れた地味な印象を持ってしまうが、当時の日本では至ってありふれた普通の名前だったのだろう。彼女は岩手県松尾村と云う、タカラヅカとは縁もゆかりもない農村に生まれた。幼少期・小学校六年卒業までを岩手県川口村(現・岩手町川口)で過ごした。実家の経済的苦境によって北海道の小樽市へ転居、北海道立小樽高等女学校(現在の道立桜陽高校)へ進学したが、二年で中退する。(余談だが、此の「桜陽高校」が、拙者の嫁さんの出身校なのであった。園井恵子様が大先輩だったとは何だか感s激。)
小樽高等女学校を中退した園井は、北海道から遠く離れた兵庫県の宝塚歌劇団に入団する。此のすさまじいまでの落差に驚くが、既に彼女自身、自らの才能を自覚してのことだったに違いない。
園井は18期生として昭和4年に初舞台を踏んだ。入団三年目にして、劇団上層部から「今年最大の収穫」と云われたほどの評価を受けるに至った。しかし園井の其れからも苦労続きだった。小樽市の実家が破産してしまい、彼女を追って宝塚市へ転入した両親・妹たちの扶養を余儀なくされたのだ。
あまりにも生活が困窮していたので、阪急電鉄創始者で宝塚歌劇の生みの親でもある小林一三は、園井に宝塚映画への出演を勧めた。小林一三もまた、彼女が才能・人格ともに優れた人物であることを認めていたのだ。
園井は、宝塚映画 「山と少女」「雪割草」(昭和13年)、「南十字星」(昭和16年)、「南から帰った人」(昭和17年)などに出演し、昭和17年の「ピノチオ」を最後に宝塚を退団した。時代は既に戦時体制の真っ只中であった。
園井恵子は、タカラジェンヌの先輩でもあった女優小夜福子の推薦で、大映「無法松の一生」に出演した。荒くれ者で評判だった人力車夫・無法松と、無法松の善き友人となった矢先、急病死してしまった陸軍大尉・吉岡の遺族(未亡人と幼い息子)との交流を描いた映画で、無法松を阪東妻三郎が演じたのはあまりにも有名である。園井恵子は、「気品・美貌の誉れ高く一粒種の愛息へ深い愛情を注ぐ軍人の未亡人役を外見・内面とも見事に表現(ウィキペディアから抜粋)」し、大好評を博したのであった。
無法松の一生 [ 阪東妻三郎 ]
「あの阪妻と共演した女優さん」で一気に有名になった園井恵子・・・大映からも専属契約の誘いが来るなど、引く手あまたの状態であったが、彼女はこれらの誘いを固辞した。あくまで演劇の勉強を続けたかった園井は、軍隊慰問公演等を行う移動演劇隊さくら隊に参加、結局此の判断は彼女にとって最悪の結果を招くことになるのだ。