園井恵子さんの無残な最期は、映画「さくら隊散る」に詳しい。さくら隊とは、戦時体制の最中に生まれた移動劇団のことだ。映画では、時代背景を詳しく解説する中から、数多くの証言者(杉村春子や宇野重吉、長門裕之など、今思えばすごい面々なのだが)のインタビューを踏まえて、当時の演劇活動の変遷やさくら隊メンバーの最期を追いかけていく。
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昭和16年、内閣情報局の手で日本移動演劇連盟が結成され、日本国内の各劇団は有無を言わせず加入させられることになる。俳優さん達は徹底的ともいえる統制下に置かれ、警視庁発行の「技芸者証明書」が無いと演劇活動すら出来なくなってしまった。
当局による締め付けは激しさを増しており、少しでもプロレタリア的味付けを付けようものなら、たちまち特高がやって来て検挙される訳である。宇野重吉によると、自分の劇団は「左翼だ!」と検挙され、すったもんだの末に警視庁だの内閣情報局だのうるさい連中に取り巻かれ、何やら小難しい文句を書いた文書に「誓いのコトバ」を書かせられ、ハンコを押させられ、屈辱極まりない日々だったと回想する。こうした「屈辱」のたぐい、気色悪さと云うものは、もはや戦後世界のみ知る世代は到底理解できる範疇では無い。(インタビューは昭和62年9月9日〜これが宇野重吉さん最後のフィルムになりました。)
こうして国内の劇団は当局の監督のもとに再編成されていき、「国民精神高揚」のスローガンのもと、地方都市や農村・漁村を巡演する移動劇団が生まれるに至った。移動演劇隊さくら隊の結成は昭和19年の末、さくら隊メンバーの中に園井恵子の姿があった。
さくら隊は広島各地を巡演し、陸軍病院、鉄道局、海田補給廠などを慰問して好評を博した。東京大空襲の影響で、日本移動演劇連盟は各劇団を地方へ「疎開」させることになり、さくら隊は広島を拠点に活動することになる。昭和20年6月、広島市堀川町の高野邸を借り、中国支部の拠点とした彼らは中国地方の巡演を開始する。運命の8月6日、高野邸に居たさくら隊メンバーは九名、もちろん、その中に園井恵子の姿もあった。
8時15分、原爆の炸裂と共に高野邸は瞬く間に倒壊する。此の時点で生存していたのは四人であった。園井恵子と俳優の高山象三は崩れた家屋から自力で脱出、女優仲みどりは気を失っているところを船舶部隊の兵隊に救助され、さくら隊の統括者であった俳優丸山定夫は重症を負い、呉線沿線の小屋浦小学校に収容される。他の隊員達は高野邸のがれきの中で即死したか、生きたまま焼かれる運命にあった。そして、生き残った隊員達も、原爆症と云う未知の病に侵されて苦悶のなかで死んでいくのだ。
園井恵子と高山省三は、広島市郊外の海田市まで逃れていた。8月8日、海田市駅から山陽本線の上り救難列車が出ると聞き、二人は海田市駅へ向かう。映画では、海田市駅における発車間際の悲惨極まる情景が再現された。傷を負い、ボロをまといながら、血まみれのまま列車に乗り込む被災者たち。高山象三と園井恵子も、大混乱の渦中に藻掻きながら漸く列車に乗り込む。二人は三宮駅で降り、六甲の中井家へ転がり込んだ。中井夫人は、宝塚歌劇団の生徒たちが「ママさん」と呼んで慕っていた人物。要はタカラヅカの有力な後援者であった。
タカラジェンヌであった内海明子女史は、「広島でヘンな爆弾が落ちたらしい、ハカマちゃん(園井恵子のこと)大丈夫かしら、中井さんなら知ってるかも」、と中井家を訪ねた。ハカマちゃんが生きていた!しかも「見た目は無傷」であった為、大いに喜ぶが・・・。
灰と黒い雨に全身を汚され、「阪妻と共演した女優さん」などと想像も出来ない惨めな姿でたどり着いた園井恵子〜中井家の風呂で一息ついた直後に不気味な兆候が現れた。髪が抜け落ちるのだ。しかも、体中に奇妙な斑点が現れ、彼女はその後危篤に陥った。ちなみに映画「さくら隊散る」では、未来貴子が園井を演じている。髪が抜け落ち、体中に不気味な斑点を出しながら苦悶する熱演は、もう夢に出てきそうなほどだ。美人がこんな役をやると、もう見ていられない。
中井家の人々や内海女史も、原爆症などと知る由もなく、せいぜい額を氷水で冷やすか見守ることしか出来ないのだ。既に彼女の内臓は機能停止に陥り、内蔵から出血し始めていた。体にある全部の細胞が壊れていくのである。こんな悲惨な死に方があったろうか。