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交響曲第1番

「HIROSHIMA」

平成28年〜村営図書館で偶然CDを発見

村役場の横にある図書館で、思わず目を疑うものを発見した。其れは何と、佐村河内守「交響曲第1番 HIROSHIMA」ではないか。此の曲は、世間から抹殺されたと思ってた。其れでもこうして堂々と置いてあるのは、此の図書館のポリシーなのか、ただ放ったらかし状態なのか、どちらかだと思うが。
 迷わず借りた。既にあの騒動から二年が経過、世間はもうキレイさっぱりあの事件のことを忘れいている。持ち上げるだけ持ち上げ、何かのきっかけでまるで手のひらを返したようなバッシング、そして一定の月日が経てば「そんなことあったっけ?」レベルの忘れ去り方。もう此の手のパターンには辟易している。結局のところ、此の「超大作」とやらは音楽的にどうだったと云うのだろうか。

平成25年、拙者はまだ札幌に住んでいたが、或る人から此の曲を勧められた。拙者はそもそもクラシック党だ。中学の時分はチャイコフスキーに傾倒、高校でマーラーに傾倒、大学でショスタコーヴィチに傾倒、だがショスタコの第十四番あたりで交響曲と云うジャンルは崩壊したと思ってた。だから社会人になってからは時代が逆戻りしてシューマンやブラームスに傾倒、現代音楽には苦手意識があった。だから「凄いよ!21世紀のベートーベンとか云われてるらしい!」と云われてもピンとも来なかった。そもそもベートーベンは聴かないのだ。(唯一聴いているのはヨルク軍団行進曲)

まあどんなもんか聴いてみるか、と向かった先は動画サイト。ところが、動画サイトの音響が極端に悪く、さっぱり響いて来なかった。騙されて無いことで「頭良く見せたい」とか思ってる訳では無い。当時はネットの技術も途上であり、本当に音響が悪かったのだ。それきり佐村河内氏のことは頭から離れていたが、平成26年2月に公表された「ゴーストライターの件」は、仰天させるに十分な事件であった。何に驚いたのかと云うと、クラシック音楽ぐらいでそんなに騒ぐか?と云うことだ。普段、クラシックとは縁の無さそうなスポーツ紙まで其の話ばかり。どう考えたってクラシック音楽より阪神タイガースの勝率の方が社会に与える影響が大きいはずだが。

モーツァルトだってゴーストライターやってたよ

ゴーストライターと云うコトバが新鮮に響いたものだが、或る著名人が「音楽業界ではよくある話。例えばモーツァルトの『レクイエム』とか・・・」と、擁護のようなそうでないような解説をしているのを聞いて、拙者は或ることを思い出した。映画「アマデウス」のことを。昔ハマッたよ此の映画に。DVDまで買ってしまった。モーツァルト作品は詳しくないけど、とにかく一番好きなのはレクイエムだ。彼にしては珍しく終末的悲愴感漂う曲で、其処が個人的に好きだった。映画によると、モーツァルトは是を作曲するにあたり「死の世界からの使者の依頼」であることを感じつつ五線紙に向かったのであった。では、其の使者とは誰か?別に死の世界の住人ではない。フランツ・フォン・ヴァルゼック伯爵と云う片田舎の領主で、当時の有名作曲家に匿名で作品を作らせ、其れを自分で写譜した上で自らの名義で発表すると云う妙な趣味の持ち主だった。今回の事象と根本的に違うのは、ほとんどの人がフランツ・フォン何某などと知ったこっちゃない、と云うこと。作曲者が有名過ぎて、こうした裏話は大した問題ではないのだ。

 

交響曲第1番 HIROSHIMAが、真に楽曲そのものが愛されていたならば、ちょっと違った展開になったのではないか。実際は、佐村河内の作り話に人々は熱狂してしまったのだ。広島市民表彰を受けて公的なお墨付きを与えられ、天下の日本放送協會すらまんまと騙された。拙者は「運良く」彼が紹介されたNHKスペシャルを視聴していない。今見たらもう笑うしかないだろう。彼が被爆二世であることだけは事実だった。被爆者だから皆善人ではないし、皆反核思想の持主とは限らないことを、是までの人生経験で薄々理解している。社会的弱者だからと云って、油断は出来ないことも分かっている。しかし人間はついつい情けをかける。疑うことを躊躇する。それどころか障害者を応援することに「自分はいいことをした」などと妙な自尊心をくすぐられるのだ。拙者だって同じように感じるであろう。「HIROSHIMA」と云う標題が、かえって問題を複雑にしたのだ。

標題はさておき絶対音楽として聴く

騙されたつもりでやってみたら、案外いい結果が得られることは結構ある。今回、図書館で借りたCDを音響のいいCDプレーヤーで聴いてみたところ、これまた予想外に素晴らしい楽曲である!新垣氏の作曲が「自分の趣向に合ってた」ことは確かだ。いい曲なら、別に誰が作ったって構わないのである。



↑核爆発を連想する写真だ↑

何が良かったのか?其れは「現代音楽にしては分かり易い」から。第一楽章をさらっと聴いて、まずショスタコーヴィチの交響曲四番や八番の雰囲気を連想した。第二楽章の或る部分は、チャイコフスキーの交響曲第五番第一楽章の終端部と酷似している。第二楽章の後半は、マーラーの交響曲第六番第三楽章を彷彿とさせる部分もある。第三楽章のフィナーレに至っては、マーラーの交響曲第三番終楽章と全くと云っていいほど同じ。フィナーレに到る直前はマーラーの交響曲第二番第五楽章や千人の交響曲の断片に似た雰囲気が出て来て、なかなか面白い。
 だから聴いてて心地いいのだ。CDの解説書を読むと、マーラーやショスタコと云った伝統的交響曲の継承者が佐村河内であるなどと云う、今となってはイタい賛辞で溢れている訳だが、みんな騙されているんだから仕方がない。でも楽曲自体は伝統的な交響曲!こんな70分を超える超大作が書かれたのは一つの事件であろう。

ある評論家は、周囲の熱狂ぶりに惑わされることなく「何処となく借り物的な感じがする」と酷評した。だから心地いいと感じる拙者は、まぁ其の程度なんだけど、重厚長大で「大きな物語があった」19世紀や20世紀前半にロマンを感じている馬鹿な趣向が「心地いい」と感じさせた訳だ。マーラーやショスタコの借り物でも十分だ。だって本当に其れらが好きなんだから。
※プロの作曲家なら、素人が聴いてこの部分はマーラーに似てるなどと指摘されるような曲は作らない、とのこと。そらそうかもなぁ。新垣さんわざとやった?ちなみにショスタコも引用魔と云われているが・・・。

何だかんだ、佐村河内氏の存在がなければ、新垣氏もこうした曲を世に送り出すことは出来なかったのではないか。しかも、障害者であることを殊更強調し、嘘の伝説をでっち上げなければ、此の曲が万人の元に届かなかった。嘘の作り話に公共放送まで騙されなければCDも売れなかったろうし、図書館にも置いて呉れないから拙者も聴く機会が永遠に無かっただろう。もはや其処までやらねば交響曲は「売れない」のである。マーラーに似ても、超えることはできない現代音楽〜ハプスブルグ時代末期こそ人類の最盛期だったかも知れぬ(笑)。

蛇足だが、此の交響曲を取り巻く様々な事象は、あらゆる面で参考になった。一例を挙げると、広島県に〇〇河内と云う苗字が多いことを知り、拙者が執筆している小説の或る登場人物の命名に当たり参考にさせていただいた。ちなみに其の登場人物の役柄は「詐欺師」である。





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